2021年7月4日(日)聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨
《聖書》歴代誌下6章12~21節
【はじめに】
毎週木曜日の聖書を学び祈る会では、歴代誌下を1章ずつ読んでいまして、6章は学んで日が浅いので記憶に残っています。歴代誌下6章12~21節は、ソロモンの祈りの前半を物語ります。父ダビデの念願であった神殿がその子ソロモンによって7年の歳月をかけて完成しました。完成をお祝いし、動物犠牲による祭儀、音楽隊による賛美礼拝の後、主の栄光が雲のように神殿を包む中で、ソロモンが祈りを献げるのです。この祈りの要点は、3つです。
1.父ダビデへの約束の継承。
2.神殿の目的。
3.罪の赦しの宣言。
【約束の継承】
ソロモンは、偉大な父ダビデの信仰を受け継ぎました。その証しが、父に適わなかった、神殿を建築することです。ソロモンは、父が神殿建築のために準備した豊富な資材を用いて、7年の歳月をかけて、神殿を完成させたのです。
神殿の完成をお祝いし、執り行われた祭儀、その中心にある礼拝の中で、ソロモンは、イスラエル王国の3代目の王として、最初の祈りを献げるのです。その祈りの最初が、父ダビデに約束された王国繁栄と継承の約束の確認です。主なる神さまは、ダビデがどのようなときにも、アブラハムから始まったただ御独りの主を神として信じる信仰を守り続けた、その信仰によってダビデに約束されたのです。神さまが約束された王国の繁栄と継承をソロモンの時代にも、その後に続く子孫にも受け継がれますようにと心を込めて祈願するのです。
神さまがダビデに約束されたことを、常に守り通されることを「真実」といいます。それは人の不信、背教、裏切りにあっても、神さまは真実な御方として約束を守り通されるという意味です。
「真実」は、旧約聖書のヘブライ語では「エメト」と言います。エメトは、3文字からなり、アルファベットの順番に置き換えますと、「A 」と「M」と「Z」に位置します。つまり、アルファベットの最初と真ん中と最後の3つの文字から成り立っていることです。とても珍しい文字の成り立ちです。初めも真ん中も終りも一貫して変わることがないから「真実」なのです。神さまの御心がエメトであるのは、一貫して変わらないことです。
人に用いる場合、例えば、歴代誌下9章5節にはソロモンに用いられています。アラビア半島の南の方に位置するシェバ国の女王がソロモンの知恵を試すために来訪しますが、どのような難問にも答えたソロモンを絶賛して告げた言葉です。
「わたしの国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のこ
とでした。」
この「本当のこと」がエメトなのです。「真実」とは訳さずに「本当のこと」と訳したのは、主なる神さまに用いる場合と分けるためです。ソロモンの知恵は公正と正義による裁きの知恵です。それが、主なる神さまから与えられた「本当の」知恵であることを伝えているのです。
とはいえ、知恵に満ちたソロモンでさえ、人であるゆえに真実であり続けることができず、罪から逃れられなかったのです。「真実」は、1度約束したことが最初も真ん中も最後も一貫して変わらないことです。ですから「真実」は神さまに用いるのです。
ソロモンは、そのことを十分に承知していましたので、父ダビデに約束された王国の繁栄と継承を祈りの最初に、神さまの真実に寄り頼んで祈り願ったのです。
【神殿の目的】
では、完成した神殿は、どのような目的を持つのでしょうか。ソロモンは、天地万物を創造された主なる神さまが、人が建築した神殿にはお住まいにならないことを承知していました。では、神さまがお住まいにならない神殿をどうして建築したのでしょうか。それは、神
さまが約束された理由によるのです。その理由は「わたしの名を置く」と、主が約束された故に、神殿は建築されたのです。
「名を置く」ことの現実は、「神の契約の箱」を神殿に安置することです。「神の契約の箱」は、モーセの十戒を納めた箱のことです。エジプト脱出に成功した、イスラエルの民は、喜びにあふれていましたが、乳と蜜の流れる約束の地カナンに定住しても、何を基準にして、秩序ある生活をして良いのか分かりませんでした。神さまはモーセに「十戒」を授けまして、礼拝と生活の規範・指針としたのです。モーセ以来3百年間守り通してきた「十戒」を納めた「神の契約の箱」を神殿に安置することが、その目的だったのです。「名を置く」神殿こそ、神さまに礼拝と祈りを献げ、神さまを身近に感じることのできる、最も具体的で現実的な見えるしるしとなったのです。
ソロモンは、イスラエル王国と全国民のために、「神の契約の箱」を安置し、初めて神殿を完成させたのです。
1つだけ、加えさせていただきますと、前に「乳と蜜の流れる地」についてお話ししましたが、聖書の御言葉の本来の意味に戻って考えますと、「乳」は牛などの家畜の乳であることに変わりはありませんが(申命記32章14節)、「蜜」は申命記32章13節の御言葉が最もふさわしい解説かと思います。それは「水」です。モーセ自身、40年の荒れ野の旅に基づく証言として「岩から野蜜を、堅い岩から油を得させられた」が最もふさわしいように思います。つまり、岩から流れ落ちる「野蜜」や「油」は渇きを癒す甘い「水」であることです。モーセが岩を杖で打つと水があふれ出たとの奇跡こそ、「蜜」の正体です(出エジプト記17章6節)。
【罪の赦しの宣言】
では、ソロモンが3番目に祈願した「罪の赦しの宣言」にはどのような意味が込められているのでしょうか。
その背景には、幾つかのことが考えられますが、その1つに、王位継承問題があります。異母兄アドニヤと争い、勝利しますが、アドニヤ軍を率いた将軍ヨアブをアドニヤと共に滅ぼしたのです。将軍ヨアブは、父ダビデを支えた掛け替えのない将軍として活躍した人物でした。王位継承争いとは言え、その結末は悲惨なものでした。国内において「重い税」を課したのはソロモンが初めてと言われています。このことが後に王国が2つに分裂するきっかけとなりました。信仰上の問題として、エジプトを初め諸外国の王の娘を妻に迎え入れ、外交の安定を図ったことは、結果として諸外国の宗教も取り入れることになり、ついにはただ御独りの主の神殿においてさえ、外国の神々が礼拝される過ちを犯すことになったのです。
神殿建築の完成は、父ダビデが待ち望み、その子ソロモンが完成させた、王国を盤石にする基盤となりました。ソロモンの当初の王としての姿には、父ダビデの信仰を継承し、知恵と謙遜に満ちた心があったことは確かです。主なる神さまに献げる祈りもまた、自らの罪に気づき、イスラエルの民の罪をもしっかりと見据えながら、神さまに「罪の赦し」を心から祈り願う熱い思いにあふれていたのです。
ですが、王としての40年間の在位の中で、次第に大切なものを見失っていったのです。それは何でしょうか。
【悔い改めの信仰】
それは、父ダビデにあって、子ソロモンには失われたものでした。それが「悔い改めの信仰」です。父ダビデは、預言者の言葉を主なる神さまの御言葉として、最後まで聞き従い、悔い改めて、本来の信仰に立ち帰り続けました。
ソロモンは、その知恵のゆえに正しく神さまの御言葉を聞くことができなくなっていったのです。神さまの真実は失われ、自分の知恵に寄り頼んだのです。それは、外国の宗教が多種多様に入り込み、神々にまさる神のような存在として、その地位を守ったことに現れました。ソロモンは、「悔い改め」をおろそかにし、アブラハム以来受け継がれてきた、ただ御独りの主なる神さまを信じ、その御言葉の前に心を低くし、悔い改める信仰を失ったのです。
繁栄の影に、信仰の真実は失われ、主の「名を置く」神殿は、本来の礼拝の心を失いました。国の繁栄が国民の豊かさにはならなかったことも、ソロモンの罪となりました。
ソロモンの当初の祈りが、真摯でへりくだった祈りであったことは確かです。それだけに、悔改めのない信仰の悲しい現実を見るのです。悔い改めつつ、日々過ごしてまいりましょう。
Comments